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2016.04.16.Sat

最低限であることで保つ 

最近携わっている仕事により制作に対する心境的な変化があり、それをどう捉えるかという目的で文章を書きました。

 

バンドで、5月からのある企画に楽曲を提供することになりまして、最近はその楽曲制作をしています。

4月いっぱいがしめきりで、月末にレコーディングをするのでいまは作曲をしてデモを作っては依頼主のチェックを受けて修正してという期間です。

8曲作って、5曲採用になって、さらにまた2〜3曲提出するべく作っているような状況です。

平行して、OKが出た曲を正式にアレンジ直しとレコーディングに向けたバンドでの練習も行います。

シティボーイズ劇伴音楽というのも人生初めての経験で色々なことが起きたけど、いまやっているこの作業もまた違った観点で進んでいて。

誰に教えてもらえることもなく、正解が何かわからないままとにかく作っています。バンドでの練習は共同作業で楽しいけれど、一人で曲を作ってデモを叩いてチェックを受けにいってという作業は孤独で少ししんどいです。

自分にとって初めてのことというのはなぜこんなにも大変なのでしょうか。そして2度目になると半分くらい楽になるのはなんなのでしょうか。少し不公平だと思います。どうせ2度目に楽になるのなら、最初にもその楽さを分けてほしいと思います。無理だけど。

 

 

この「大変だったという思い出」は無意識に自分を肯定させてしまう危険な装置として考えています。

大変なのと大変じゃないのどっちがいいといわれたら、僕は絶対に大変じゃない方がいいのですが、でも大変な思いをしていないと自分的にいいものだと納得できないのではないかという謎の考え方もあり、そして大変かどうかは「自分で決めていい」からよけいにたちが悪いと思います。

以前にブログに書いた「モックアップメモリー」という記事で、自分を痛めるつけることで努力をしているような気になるという僕の性格について書きましたがこれは同時に、僕は大変だった思い出を自分にとって無駄だったことにしたくないという、非常にせこい気持ちからも来ているものだと思います。

この仕組みを理解すると、僕には大いにこの考え方が効果的であるということがわかってきました。

すると表現において作品において、僕は自分の中に絶対的な価値や尺度がないということ、心から表現したいものが希薄であるということなどが浮き彫りになってきました。

つまり、自分が作ることや作ったものに対して、自分の欲求から生み出されたものと理解せず、自分で解決ができない。僕はそこに「大変な思いをしたから良い」とか、「チェックを受けて怒られなかったから良い」という尺度でいつのまにか自分が作るものを測っているということでした。

 

 

 

まずなにより僕は、自分のなかの衝動や承認欲求が暴れ出して作品に向かってぶつけられているような表現が大好きなので、それにめっちゃ憧れています。

僕がバンドを始めたのは自分のなかにもその衝動や欲求が現れたからだ!と思っていて、僕もその衝動による表現のレースに参加できたような気がしてとても喜ばしいことだったのだけれど、表現欲求を自分の衝動を根拠においてしまうと、それを行わなかった日や時間は同時に表現や欲求を我慢しても大丈夫というような図式として成立していまい、いつしか僕にとって創作はそこまで優先順位の高い出来事ではないのか、なくてはならないものではないのか、そして「あれ?僕の衝動なんてこんなものかな?」なんていう冷めやシラケを感じてしまったりします。

 

自分の衝動については自分でしか理解できない(もっといえば自分でも理解できない)のは当然なので、自分には衝動と欲求があると信じ込むことしかできないのだけれど、そしてその燃料がつきてしまったときが終わるときと同じだとは思います。

僕にはその欲求がないわけじゃないけど、突っ走るには希薄ではあるのかな、なんて思ってしまうようになりました。

それは、全力を出していないと言えるかも知れないし、僕が全力を出すに値しないと実は自分で自分の活動に大して思ってしまっているのかもしれない。全力出したよというアピールの滑稽さや、それによって評価を操作するような行為に嫌気がさしてしまったのかもしれない。色々な理由があるけれど、僕は自分が音楽とかいろんなものを作って表現すると言うことに対して、良くも悪くも(のうち悪い意味が多い状態で)一歩引いたような感覚になってしまっているのかもしれません。

 

表現とは評価される可能性のことだし、それを出してしまった以上誰にどんな評価をされようがそれはしょうがないことだからそこには頓着しないのだけれど、自分の作品が発現する過程に僕は何かの意味を結んでいないといけないと思いこんでいて、そしてその理由の糧にしていたものがどうやら自分にとってそんなに重要でないぞという考え方が1つ現れてしまった状態です。

 

 

 

好きなものに対して自分よりも深く真摯にその対象を愛して理解している人が現れたりすると、自分の行為は、「その人に比べたら大して好きじゃなかった状態」になってしまって行為が手元からゆっくりと離れていく寂しさというものがあります。

好きなものに対すること、やりたいと思っていたことや、自分がよりどころにしていたものが、変化する時にはいつも何か寂しさを感じます。

自分が好きなものをいつまでも信じていられないこともあるということがわかってきて、わかってきたというかそういう考え方が生まれた感覚ですね。

僕は年を重ねることや経験を得るということは成長だとはどうしても考えられないので、これは良いことでも悪いことでもありません。ただ「変化した」というだけでそこに特別な物語はありません。

その変化は年齢とか仕事とか家族とか友人とか些細な出来事一つで変わってしまうので、そして変わってしまったらもう元と同じように考えることは出来ない。

二度と会えない戻れないというのが寂しさの所以ですかね。

 

 

 

こんな風に、僕はいま自分が仕事したり加齢したりしながら音楽を作ることへの考え方や自信がグラグラになっている状態です。

作りたくて作ってるのに大変だと思って、そしてその大変だと思うこと自体が自分の創作欲の根本を問うてきてる感じです。僕に仕事を依頼してくれた人や、バンドの音楽を聞いてくれる人に対してとっても申し訳ないと思うようになりました。

 

 

 

そんな環境なのですが、しかし不思議な話があって

 

 

「それでもしめきりはやってくる」

 

 

のです。

 

 

僕は今自分がしていることへの、理由付けへの自信がグラグラになっている状態(でもそれは本当は昔からずっと常にあって、バンドやって表現したりするならそういうのは隠して勇気を示すのが誠意だと思っていた)でありながら、僕に何かを作って欲しいという人がいて、そして僕の活動(バンドやブログ)を見てくれる人がいて、僕は出来る範囲で作っています(その出来る範囲の狭さにうしろめたさを感じながら)。

僕は、存在自体がありがたいというような尊さのある人物ではないので、「それでもいいよ」と言われているわけではないのはわかります。でも「より良くしてね」とは言われていると思います。

 

自分が作ったものが不安でも、そしてそれに向かう姿勢がなんだろうと僕は作る仕事を引き受けて作っています。できあがりを良くしようと毎日取り組んでいます。

でも別の人がやったらもっと良くなるかもしれないし、アレンジにかける時間をもっと長くとれたらそれだけ良いものができたりもするかもしれません。その想像は辛いことです。

詰めようと思ったら、追求しようと思ったらもっと悩むしもっともっと自分の力の及ばなさに削られていくだけなのだろうと思います。

そんな風に自信がないながらも、作っていて向かっていて、時間が過ぎています。

 

僕に多くのアレンジの引き出しや作りたい衝動や欲求が無限にあるわけではないけれど、時間をかければかけるだけ、その追及はお越える可能性が上がっていくし、実際クオリティは上がっていくと思います。

しかししめきりを完成と考えると、そこまでの時間をかけることは出来ないので。そうすると、しめきりが来た日が、完成する日とイコールということになります。

どれだけつめようがつめまいが、自分がこれで完成ですと言えば完成だし、そしてそのために締切というものが設定されていると思ったのでした。

全員が全員このやり方で創作を理解しているわけではないとは思うけれど、となると誰かが作った作品というのは全て「最低限のGOが出せるレベルしかない」と言い換えることが出来ると思ったのでした。

 

つまり、どんな表現や作品にも、自分も全員も誰もが完璧に納得する作品というのは、作る人にモチベーションがある以上ありえないと思いました。直したり変えたりいくらでも出来ると思います。自分にとっての完璧や満足というのは、むしろ訪れてしまったら自分の表現はそこで終わってしまうということでもあります。

 

「作品」とは「最低限の納得」であると考えた時に、その瞬間風速を出したと自分を納得させるための装置として「大変な思いをして出来上がった」「限られた時間で限界まで向き合った」という物語を結びたくなるのだと思います。

そこまで頑張ったものが、自分にとって最低限の納得レベルにしか届かなったということが、今回もまた自分を完全に満たすことはできなかったと確認していく作業を重ねることで、逆に次へのモチベーションを作り出しているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

ということで、僕は最低限の納得が自分に新たな(別方向の)活力をもたらしてくれるのではという期待がある、という奇妙なモチベーションを作ることに成功して、いまも制作を続けています。

 

今回の企画は、完成すると多くの人に聞いてもらえるものなのでプレッシャーもあるけど頑張りたいと思います。

聞いてほしいのは心から本当だよ。引き続きよろしくお願いします。

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  • Makiho Sekiuchi

    海外では、際限なく「締め切りがない(納得いくまで修正し続ける)」ようですけどねー。日本では、そうはいかないでしょうね。

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